記録と記憶と伝承

震災当日やその後数日間、どんなことをして何を考えていたかはいちおうブログに記している。思い返せば祖母が退院したばかりで大変だった。それから数ヶ月、震災の影響と介護という2つの問題を抱えながら過ごした。そして気がつけば1年経った。


TwitterのツイートをFacebookに流し込んでいるので、Facebook上でタイムラインをさかのぼってみる。計画停電が実施され、その時間を避けるように、計画停電のないエリアのコーヒーショップに「疎開」して原稿を書いたりしていたのを思い出した。


買い物は主に私が自転車で店をまわっていた。ガソリンスタンドに並んでいる時間があれば自転車でスーパーやコンビニを何件かまわることができた。クロスバイクにキャリアとサイドバッグを取り付けておいて、本当によかったと感じた。


祖母の見守り等で家にいるしかないときは、かなりCityVilleをやり込んでいた記憶がある。今はもうやっていないけど、精神的に参っていた自分にとって、あの頃のCityVilleは癒しだった。


FMラジオのパーソナリティが結構いい加減な情報をペラペラしゃべるし(計画停電の夜はろうそくで過ごそう、とか←余震が来たら火災の原因になるのでNG)、かといってNHKラジオ第一は悲しくて聞いていられないので、比較的音楽を多く流すニッポン放送を聞いていた。


まぁ、そんなふうにいろいろさかのぼれる、Facebookのタイムラインって面白いな、と。


あの日あのとき、何を考えていたのか。何をしていて、何をしていなかったのか。


TwitterやFacebookに残された記録から、どこまで記憶を呼び覚ますことができるだろうか。そしてどれだけ後まで、それを残したり、伝えたりすることができるだろうか?